【2月】つらい日々も支えてくれる、とっておきのご褒美「やよい御膳」
今朝、庭に咲く椿の花が、ぼとんと落ちた。不吉な予感をふりはらうように、僕はやよい軒に駆け込む。
高校に入ってすぐ通いはじめた塾には自習室があって、三年生になってからは土日も入りびたり。ふだんは家から持ってきた特大おむすびで空腹をしのぐのだけど、ときどき、自分をねぎらうつもりで近所のやよい軒に行く。なかでも、とっておきのご褒美として注文するのが、やよい御膳だ。
サバの塩焼に、てんぷらとすき焼き。小鉢にごちそうが並んでいる。おくらとささみのポン酢和えにわかめが添えられているのも、いい。一皿ずつ、その味わいをかみしめていると、同じ塾に通う女の子が、隣のテーブルについた。
「豪勢だねえ。最後の晩餐?」
「その言い方は、ちょっと。景気づけって言ってほしいね」
「明日だもんね、本命の試験。私も、気合入れようと思って来た」
そう言う彼女のもとに運ばれてきたのは、ミックスとじ定食。ロースカツとエビフライ、牛肉を卵でとじた、やっぱり豪勢な一品。彼女が頼むのはいつも、これか、味噌かつ煮定食か、かつ丼。いろんな味をちまちま楽しみたい僕と違って、彼女は一つの味をガツンと楽しみたい派。
この一年、ときどき、僕たちはこうして肩を並べて食べた。
お互い、実は、名前も知らない。知っているのは、志望校が同じということだけ。「やよい軒って、揚げ物が秀逸だと思うんだよね」とい言う彼女に「わかる。なんで単品で定食にならないか不思議なくらい、てんぷらもおいしいんだ。さんまの塩焼定食についてた小鉢も最高だったよ」なんて他愛もない話をする時間が、受験勉強の日々をどれほど支えてくれていたか、彼女は想像もしていないだろう。
それも、きっと、今日で終わり。落ちた椿を思い出してへこんでいると、彼女が言った。
「そういえば今朝ね、私の目の前で椿の花が落ちたの」
ぎょっとした。なんたる不幸な偶然。けれど彼女は笑顔で続けた。
「幸先いいよね。きっと私たち、合格するよ」
「幸先悪いでしょ。落ちたんだよ」
「椿の花の紅には厄払いの意味があるんだって。まあ、諸説あるらしいけど、信じたいものだけ信じればいいじゃない。私たちの厄を先に持って行ってくれたんだと思うことにした」
そう言って、彼女が差し出したのは、薄緑色の椿の葉。
「お守りに、あげる。一緒に受かって、次は同じテーブルでごはんを食べようね」
その言葉に、今度は僕の心臓がはねて、床に落ちてしまいそうになる。
想像する。合格発表の日、お互いに名乗って、ライバルではなく友達になる僕たちの姿を。そのために、できる限りのことを尽くすんだ。紙ナプキンで大切に葉を包み、僕は力強くうなずいた。
作=橘もも イラスト=畠山モグ