【5月】これじゃなきゃだめ、な「チキン南蛮定食」
口のなかで、衣がさくっとはじけた。
肉汁に染みこんだ甘酸っぱい南蛮ダレと、卵の味が濃厚に香るタルタルソースがからみあい、俺は泣きそうになってしまった。
これだよ、これ。この味を食べたかったんだ。
やよい軒のチキン南蛮定食。以前勤めていた会社の近くに24時まで営業している店があって、残業終わりにしょっちゅう、立ち寄っていた。
俺にとってチキン南蛮の正解は、宮崎に住むばあちゃんの味。おやつに食べたくなるほどタレは甘く、自家製マヨネーズの塩気が効いているから、無限に食べられてしまう。再現できる料理人などいるはずもなく、俺はしかたなく、かわる味を求めて東京をさまよった。結果、いちばんうまいのが、やよい軒。モモ肉を使っているのもポイントが高かった(ちなみに母さんはむね肉派で、ばあちゃんとよく喧嘩をしている)。
それでも俺にとってはずっと「でもこれじゃない」の味だった。……はずだった。
2年前、俺は家業を継ぐため、会社をやめて地元に戻った。ばあちゃんのチキン南蛮も、今や食べ放題。変わらずうまい、恋焦がれたあの味。それなのに。
これじゃない、と思ってしまうのは、なぜなのだろう。
くたくたになるまで働いて、ビールと一緒にかきこみたくなるのは、やよい軒のあの味だ。ピクルスと玉ねぎの入った特製タルタルソースに、箸休めにつまむ豆腐。最後に漬物をのせて、だしをかけて締めるごはん。そのすべてが恋しくてたまらず、俺はわざわざ、電車を乗り継ぎ、やよい軒まで食べに来た。
だけど、それでもまだちょっと足りないのは、彼女の姿がないからだ。
よく食べるねえ、といつもあきれたように笑っていた同期のあいつ。
ときどき帰りが一緒になって、やよい軒でメシを食った。いつだって凛と背筋をのばして、前を向き続ける彼女がいたから、つらくても俺はくさらずに済んだ。だけど、いつまでもそばにいてくれたらいいのにという願いを、俺は最後まで口にすることができなかった。
――暮れぬとは 思ふものから 藤の花 咲ける宿には 春ぞ久しき
もう春は終わってしまったようだけど、藤の花が咲き続けているあなたの屋敷には、春がいつまでも続いています。そんな感じの意味のこの和歌を、高校時代に習って以来、妙に心に残っているのは、まるで恋のようだと思ったから。
季節がめぐるたび、庭先の藤の花が咲くたび、終わったはずの想いがよみがえる。
彼女がよく着ていた、青丹色のワンピースを見かけるたびに、はっとする。
だから、決めた。会いにいくと。
いつのまにか「これ」になった味を頬張りながら、彼女の姿を思い浮かべる。
あの頃と同じように笑ってくれたら、きっと、俺の心もはじけとぶ。
作=橘もも イラスト=畠山モグ