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やよい軒の成り立ち

 西洋の文化が日本へともたらされ、人々の暮らしが近代化へと向かい始めた明治19年。東京・茅場町の地に、ひとつの西洋料理店が誕生しました。その名は「彌生軒(やよいけん)」。のちに文豪・谷崎潤一郎がその著書『幼少時代』の中で「保米樓(ほめろう)よりも古い西洋料理屋」としてその存在を書き記した、日本の外食の黎明期を代表する店です。陸軍大将・大山巌、元幕臣の勝海舟、そして警視総監・樺山資紀。激動の時代を牽引した政府高官や名士たちが顧客として名を連ね、最先端の食文化を味わったその場所こそ、現代の「やよい軒」の原点です。

明治19年、食の近代史と共に始まったやよい軒の歴史

 明治19年5月。新時代を牽引する人々が行き交う活気に満ちた東京・茅場町に、西洋料理店「彌生軒」は誕生しました。創業者は武家から転じて事業を興し、成功を収めた塩井民次郎です。民次郎は銀座に別荘を持ち、当時はまだ極めて珍しかった電話をごく早い時期から「彌生軒」と別荘の両方に引いていました。江間政発の書による看板を掲げたその店には、人々の食卓に新たな豊かさを届けるという明確な目的がありました。

 その確かな品質と格式は高い信頼を獲得し、ご来店者として現代に名が伝わっている方々の中には、陸軍大将の大山巌、元幕臣の勝海舟、そして警視総監を務めた樺山資紀らの名もあります。当時の最先端である西洋料理を提供し、国家の名士たちが集う特別な空間でありながら、その根底にあったのは訪れる人々を誠実に迎え入れ、日々の活力となる食事を提供するという、お客さまへの実直な想いでした。

 この茅場町における彌生軒の佇まいは、後世の文学の中にも確かな事実として刻まれています。文豪・谷崎潤一郎は、その随筆『幼少時代』の中で、自身の生家の隣にできた料理屋の思い出に触れつつ、「南茅場町の薬師の地内は……保米樓よりも古い西洋料理屋の彌生軒……などがあり」と、当時の街の風景とともにその名を克明に記録しています。

 時は流れ、明治の景色は遠い過去のものとなりました。しかし現在、プレナスの茅場町オフィスである「日本橋弥生ビルディング」は、明治期に「彌生軒」があった場所にほど近い位置に建っています。この時代を超えた巡りあわせは、脈々と受け継がれてきた情熱の系譜に他なりません。形を変え、時代に寄り添いながらも、一杯のごはんと温かな食事を通じて人々を笑顔にする。その使命は明治19年の創業当初から、一歩もブレることなく現代の「やよい軒」へと引き継がれているのです。

※江間政発(えま‐せいはつ 1851-1916):明治時代の漢学者。号は蘇洞。元桑名藩士。松平定信の事績を調べ、1893(明治26)年「楽翁公遺書」を刊行。翌年渋沢栄一が企図した徳川慶喜の伝記編修事業に加わり、史料収集にあたった。